オリンピックは、開催する国・都市に興味深い論争を巻き起こします。
4年に一度行われる大掛かりなイベントは、見方によって開発や成長の起爆剤にも経済的負荷にもなりえます。しかし本当は、どちらでもあり、どちらでもないのです。事実、2週間という限られた期間に開かれるこの祭典は、数年間のロビー活動や準備といったプロセスに支えられており、その構想で描かれた輝かしい都市的な約束の効果も、何十年にもわたる開発の後にやっと実感できるものでしょう。
このエッセイは、この世界的な祭典の是非を問うものではなく、現在進行中の2020(2021)東京オリンピックをめぐるドラマについて、何らかの見解を示すものでもありません[1]。私たちは経済や国家の威信、政治的固執といった私たちが専門外の言説に身を投じるつもりはありません。そうではなく、この短いエッセイでは1940年に開かれるはずだったオリンピックを参照し、どうすれば生産的な考察ができるかを考えたいと思います。
1940年夏季オリンピック大会(第12回オリンピック)は、東京で開かれることが1936年に決定しました。日本は非西欧諸国で初めて開催国に選ばれました。満州侵攻や国際連盟からの脱退を考慮すると、これは極めて特異なタイミングであり[2]、日本の国際的地位を高めるために各国と調整し申し合わせた結果であったとも指摘されています[3]。ここでは時間と領土の文脈をもう少し拡大して考えてみます。1940年のオリンピック構想は、東京近辺に壊滅的な被害をあたえた関東大震災(1923年)の後に計画されました。2011年の東日本大震災では東京とは別の地域が被災しましたが、どちらの自然災害と復興も、政治と経済に乗り越えがたい痕跡を残しました。興味深いことに、2つのオリンピック構想は観光産業の活性化を目指していました[4]。あたかも観光が震災後の復興の遅れによる経済的苦境を救う唯一の特効薬であるかのように。
幻の1940年夏季オリンピックの主催国が発表されるまでに、既に日本では軍国主義が力を持ちはじめ、五・一五事件(1932年)のようなクーデターが発生するなど、政治的な混乱の中にありました。また世界的には大恐慌が発生し、社会の基盤を揺るがしていました。(Covid-19の発生により多くの社会的・文化的規範が覆されましたが、その経済的打撃は今後も続くでしょう。)
過去と現在の歴史的な流れが重要であることには誰もが同意するところでしょう。私たちは過去の教訓から学ぶことができます。一度目の東京オリンピック(1940年)の中止と、その四半世紀後に開催された二度目の東京オリンピック(1964年)での見事な復活が、“後悔”と"復活”の象徴であるとすれば、三度目のオリンピックは“精算”と言えるのではないでしょうか。アジア初の開催地は最初のオリンピックが予定された年から24年間待ち続け――その間に6つの大会が開催されました――、1964年第18回夏季オリンピック大会の丹下健三設計による荘厳なスタジアムにおいて、ついにギリシャからの火を聖火台[5]に灯すことができました。
2020(2021)夏季オリンピックがどのような結果を迎えようとも、冗長性や不正、何かに固執する姿勢が暴かれ、より有効で、平等で、透明性のある多様な社会を再構築できることを願っています。オリンピックが開催されようとされまいと、すでに行われた建築・都市・インフラへの取り返しのつかない投資をどう活用できるか、30年のタイムスパンで想像してみましょう。おそらく未来のその時こそ、都市の真の姿がたち現れ、完全にそのポテンシャルを活かすことができるはずです。どうか私たちが歴史から学び、不都合な真実を繰り返すことのありませんように。
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トウキョウイズムは、この不完全な都市から始まる不完全なマニフェストの探求として、今後も、一つずつテーマを取り上げます。分析や議論を通して、日和見主義的にではありますが、理論化していきます。探求したい現象のリストは山ほどありますが、これを皆さんと一緒に共有する体験としていきたいと思っています。もしよろしければ、以下の三つの中から一つのトピックをお選びください。6月号(予定)で深く掘り下げます。
Topic 01:旧街道を走る訳
Topic 02:「創造的破壊」の謎解き
Topic 03:螺旋状のランドスケープ
執筆(英文):カズ・ヨネダ
ネイティブチェック:グレッグ・セルヴェータ
編集:出原 日向子
アソシエイト:園部 達理