エゴースフェアへの弔辞 [ニュースレター:四月号] / by kaz yoneda

《中銀カプセルタワー》、2009年7月1日撮影

序文

解体間近のこの建物で、私のお気に入りのポレミックな建物──トウキョウイズムを形成する建築──を最後にもう一度見ておきたいと思っていました。黒川紀章が設計した《中銀カプセルタワー》です。しかしCOVID-19の影響で旅行がままならない今、私は2010年に書いたこのエッセイ(元はパリのEcole Speciale d'Architecture のジャーナル Le Journal Spéciale' Zに掲載)を再掲することにしました。この「未来の塔」の現在を訪ねる最後の旅として、編集と解説を加えています。

中銀カプセルタワービル:都心のワンルーム・マンション

個人の自由化時代において、住環境はアイデンティティの構築に欠かせないものとなっている。ピーター・スロッターダイクは、『Cell Block, Egospheres, Self-Containers』の中で、現代人は「つながれた孤立」状態にあり、そこでは「公共」という概念はもはや存在しないと主張する。個人的な消費資本の集積と連動して民営化が進むと、次のようなシナリオができあがる。すなわち個人がすべての欲望を、排他的で隔離された空間、つまりワンルーム・アパートメントや「エゴースフェア[1]」で充たすようになる、というものだ。[訳注:ここで言うエゴースフェアは、個々人の自我の認識領域または影響範囲を指す。]基本的なワンセル・ユニットは、今日の建設社会を形成するより大きなモジュラーを構成する最小原子となる。それは、個人のすべての生活ニーズを満たすものである。居住者は、外部のあらゆる問題、影響、機関から独立して自分が自己完結しているような幻想に陥るが、集団的な「つながれた孤立」を思い出させるような騒音や視覚、あるいは生命維持システムの故障がその幻想を打ち砕く[2]。

黒川紀章《中銀カプセルタワー》写真:César Cedano (2005)

黒川紀章の《中銀カプセルタワー》は、ワンセル・ユニットという新たな先例を象徴したものとして、日本の新しい生活様式のプロトタイプであり、選択されなかったものの、いまだに有効なオルタナティブな未来である[3]。1960年代の高度経済成長期によって、日本の典型的な家族概念とその空間性は変化した。例えば、こたつやちゃぶ台を囲んでいた「茶の間」では、テレビが家族の会話の中心になり、新しくあたたかな輝きを放つようになった[4]。そして1970 年代に、日本の前衛運動であるメタボリズムによって都市生活に関する新しい考え方が生まれた。これは戦後からバブル期の間のヴィジョンであり、イギリスのアーキグラム[5]が描き議論した「SFの理論的考察」を現実化したようなものである 。メタボリストたちの都市は生きて進化する有機体──先端技術をもったインフラ──にプラグインするものだった。《中銀カプセルタワー》が構想していたように。都市の遊牧民、新しい「ホモ・モーベンス homo movens」は、伝統的な家族の価値観やそれに付随する空間の観念から脱却することができた。その代わりに彼らは、《中銀カプセルタワー》のアパートメント・ユニットが構想していたように、伝統的家族概念や前時代的な地元コミュニティではないまったく新しい行動や関わりのシステムに、それが廃れない限り、文字通りプラグインすることができた[6]。それはヴァーチャルとフィジカルのプログラム的ハイブリッド空間であり、増え続ける日本の独身男性のエゴースフェア──ワンルームマンションを補完するコンビニ、カプセルホテル、ラブホテル、マンガ喫茶、カラオケ店の開発など──に対する症状であり解決策でもあった[7]。

これらのハイブリッドなプログラムは、結婚や出産の減少、高齢者の増加、自殺率の増加など、21世紀に起こる社会現象の空間的な症状やステレオタイプの前兆として、容易に結論付けることができた。ホワイトカラーの独身サラリーマンが家庭的な父親の数を上回り、父親たちは長い時間をオフィスで過ごすようになり、その家父長的影響力はテレビやコンピュータに取って代わられた。快適な両親の家から離れずに気まぐれな消費生活と快適な生活を送る「パラサイト・シングル」の独身女性が従順な主婦の数を上回った[8]。子どもたちはビデオゲームの仮想世界に没頭し、放課後の受験塾をサボり、親の世代が受け入れてきた生き方を先取りして拒否するようになった。これらのシナリオにおいて、エゴースフェアは無害な中立の容器ではないが、諌めるべきものでもない。すべての場合において、それは「従順でおとなしい人々をラディカルに明示された世界環境に馴染ませる行為」なのだ[10]。

このような状況においては、テクノロジーの役割も軽視できない。《中銀カプセルタワー》の部屋には、内蔵テレビ、回転電話、別料金の新型ステレオ・ラジオなど、さまざまなギズモやガジェットがあり、将来の家庭に訪れるハイテク・ブームを予感させる。カプセルや派生型シングル・アパートメントでは内部のテクノロジーが外部とつながっていて、実際には一人で閉じこもっていても、社交的でいられる状況を作り出していた。「細胞が世俗的な空間にあり続けることを保証するために、メディアは、それの絶縁体として、免疫システムとして、快適さを提供し、距離をたもつ防御機能を確実に果たす。[11]」簡潔に言えば、現実とオンラインの間にある空間は、拡張されたエゴースフェアになったのだ。新橋にいるかシカゴにいるかは、もはや問題ではない。《中銀カプセルタワー》は、現代の漫画喫茶の魅力をほとんど予言していた。つまり物理的な空間に関係なく、サイバースペースはテクノロジーとエゴーの境界となり、電子と生物を他の機械や存在と融合させ、個人の仮想共同体のネットワークを作り上げることができるのである。

エゴースフェアに没入したカプセル・ライフスタイルの幻想では、メディアが空間を私有化する。かつては物理的にその場にいる人たちとの間で交わされていた会話の場も、携帯電話や携帯音楽プレーヤーによって、偏在的で、公共的で、一方的な独白の場として、均質化した空間になった。公共空間は私有化され、個人化される。つまり、周囲の空間的、時間的な質に関係なく、ユーザーが聞きたいこと言いたいことに応えることができるのだ[12]。ワンルームマンションやファミリールーム、地下鉄の車内で一人で楽しむ「私的」メディア(ひとり用ビデオゲーム、iPodなど)は、家族全員が共有の部屋でセットを囲んで番組を見るというテレビの「共同体」的性質と比べれば、他者と交渉する必要がない。

日本であろうとなかろうと、建築家が直面しているのは、原子化された空間の物理性が縮小する中で、インスタントなバーチャル・コミュニケーションの出現によってますます主張されるようになった「現代の都市性」を定義しデザインする競争なのである。メタボリストの都市論は、都市が常に変化し続ける有機体であり、建築はその居住者のダイナミックなニーズに適応しなければならないインフラの一部であることを思い出させるものである。《中銀カプセルタワー》は、アイデンティティとライフスタイルが経済やテクノロジーの変化と因果関係を持ち、最終的には「商業化された選択」によって崩壊することを示している[13]。エゴースフェアは、こんにちの建築の役割を示している。それは、2つの狭間にある。未だ実現されていない欲望を充たすライフスタイルの物的証拠となることと、個人の政治学に自らと家庭とを探し求め鏡像の近代を生きる諸条件を調和させようとすることのあいだだ。《中銀カプセルタワー》は、このような都市生活のビジョンをタイムカプセルに収め、短期間ではあるが、見事にこの葛藤を結晶化したのである。


ゲストライター:グレゴリー・セルヴェータ, AIA, NCARB

ニューヨーク州バッファローとマンハッタンを拠点とする建築事務所sp architectureを率いる建築家であり、Bureau 0-1のグローバル・コラボレーター。バッファロー大学建築学科非常勤講師。これまでOMA New Yorkや藤本壮介建築設計事務所などで米国、日本、中国における設計やマスタープランのプロジェクトに携わってきた。
コーネル大学院にて漫画喫茶に関する修士論文「Homo Luden Ludens: New Babylon Reloaded, Media Immersion Pods in Tokyo, Japan」を執筆。

執筆(英文):グレゴリー・セルヴェータ
監修:カズ・ヨネダ
編集:出原 日向子
アソシエイト:黒澤 知香

お付き合いいただきありがとうございました。それでは、次回をお楽しみに!

解体前のヴェールに覆われた《中銀カプセルタワー》、2022年3月12日撮影

出典

[1] Peter Sloterdijk, “Cell Block, Egospheres, Self-Containers.” Trans. D. Fabricius from Sphären III: Schäume (Spheres III: Foams), Log 10 (Summer/Fall 2007): 89.

[2] Ibid., 92.

[3] Nicolai Ouroussoff, “Future Vision Banished to the Past”, New York Times, July 6, 2009.

[4] Akira Suzuki, Do Android Crows Fly Over the Skies of an Electronic Tokyo?: The Interactive Urban Landscape of Japan (London: AA Publications, 2004), 19.

[5] David Stewart, The Making of a Modern Japanese Architecture (講談社インターナショナル, 1987), 177.

[6] Suzuki, 19.

[7] Jorge Almazán and Yoshiharu Tsukamoto, “Tokyo Public Space Networks at the Intersection of the Commercial and the Domestic Realms Study on Dividual Space,” Journal of Asian Architecture and Building Engineering (November 2006, Issue 308): 301.

[8] Masaru Tamamoto, “Japan’s Crisis of the Mind”New York Times, March 1, 2009.

[9] Suzuki, 26.

[10] Sloterdijk, 91.

[11] Ibid., 102.

[12] Ibid., 103.

[13] このカプセルタワーは、日本の長引く経済不況のため、取り壊され、新しい住居になる予定である。皮肉なことに、この「スクラップ・アンド・ビルド」による計画的破壊は、黒川が意図したものとは違うが、メタボリック・チェンジの思想を実行に移すものである。