不便の美学 [ニュースレター:八月号] / by kaz yoneda

残暑お見舞い申し上げます。
立秋とはいえ、連日の猛暑、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
本物の秋が待ち遠しく、しばし涼風に憩えることを楽しみにしてます。
来年はご一緒できることを祈りつつ、どうぞご自愛ください。

不便さを肌で感じる今日この頃。考えるに、不便さは、サステナビリティの新しい様式となりうるだけでなく、人類が自然と再びつながることができる方法かと思うときがあります。「風流」という言葉は文字通り、かつての公家の邸宅が老朽化し、穴のあいた壁や障子から風が吹き抜けることを究極の美学と転化したものです。都というステータスに固執した貴族たちは、この「風流」を優雅さ、味わい、洗練されたものへと昇華させ、老朽化をまったく新しい美意識へと変換させることに成功したのです。なんと後天的な嗜好でしょうか。

荒廃した都と門のシーン (典拠: 「羅生門」黒澤明、1950)

さて、これは決して粗末な構造、粗末な素材、粗末なデザインを擁護しているわけではありません。その逆に、不便の美学は、構造、材質、デザインの質を超越したものです。それは心のあり方なのです。だからこそ、禅やわびさび、茶の湯に通じるところがあるのでしょう。

大徳寺高桐院松向軒、京都市北区 (典拠: クリエイティブ・コモンズ)

私たちは、利便性の考えに慣れてしまったので、時折、周りのすべての物象と人間が指先一つで即答することを期待しがちです。しかしグローバル・コミュニティの相互接続性を追求すればするほど、実は二極化、分裂、孤独感を生み出してきたことも事実です。すぐ手に入る情報が増えれば増えるほど、ブルシット(哲学者ハリー・フランクファート風に言えば)も増え、真実でない情報や荒唐無稽な事柄は、私たちの知る礼節や市民性、文明をむしばんでいます。物理的なレベルでは、暑い熱帯の夏の日に、冬のように冷えた室内に慣らされ、冬はその逆の状況になっています。即座に満足感を得たいという感覚は温度調節だけでなく、人との出会いや交流の仕方、例えば街で一番新しく、話題沸騰の食事やカクテルを楽しまなければならないというような、あらゆる意味での快楽に及んでいます。

これらはすべて、節度を持てば真当で感受性豊かな追求ですが、我々の生活を楽にし、簡単に満足させ、過敏にさせ、過剰に刺激するものを拒否することが、実際のところ、不便の美学の根幹です。デジタルデトックスは、不便の美学の一種です。サウナも茶道も、一種の不便の美学です。私たちは、これらの行為を文化的または必然性のあるものだと考えることで不便だとは直接感じていません。美学は、上流階級から庶民まで、日常の経済、毎日の生活、ジェネリシティの一部であることが非常に多いのです。一方で、不便さの美学が価値を持つケースもあります。コーチェラからバーニングマンに至るまで、こうした遠隔地で開かれるイベントは、それほど騒がしくない茶道と比べ、信じられないほど派手で自己発見的なものになっていて、とても高額(と私は聞いています)。派手ではないけれども、より効果的で、追求すべき不便の美学は、エアコンの温度を1度下げることや(日本建築はもっと断熱材が必要であることを含め)、次の駅まで歩くこと、自炊すること、あるいは単に生活の周りの物をもっと大切にすることで生まれるかもしれません。そんな日々の小さな積み重ねが大切なのだと思います。季節を感じたり、健康を維持したり、自分自身の感覚を高めたり、あらゆる意味で環境に適応した身体を手に入れられるのではないしょうか。

バーニングマン 2011: TerraSAR-Xによるレーダー画像 (典拠: クリエイティブ・コモンズ, DLR)

執筆(英文):カズ・ヨネダ
編集:出原 日向子

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お付き合いいただきありがとうございました。

それでは、次回をお楽しみに!